メニュー閉じる

私はまだ、その日常を知らない vol.5

平凡な日々を送る私が標高3,776mからみた景色⑤

  • Facebook
  • Twitter

この連載は... 夫の留守中、日本一の山をひとりで登る。ある日そう思い立った私<早苗>は、家事を全て投げ出し、富士山頂を目指した。平々凡々な結婚生活。刺激のない毎日。そんな日々に辟易としていた私は、そこで登山ガイドの美津子と出会う。美津子との会話、富士登山を通して、私が見たものとは…?「ねえ、それって誰にとっての普通なの?」”富士山”を舞台に、正反対のふたりを描く短編ストーリー。

私はまだその日常を知らない

>> 第1話はこちら
>> 第2話はこちら
>> 第3話はこちら
>> 第4話はこちら

身体に異変が現れ始めたのは七合目を過ぎたあたりだった。

 

狭くごつごつとした岩場を越え、緩やかな登山道に差し掛かった頃、「あそこに見えるのが、今夜休憩する山小屋ですよー」と美津子が声をかけ、雨上がり決死隊のメンバーから晴れやかな声が上がる。

そんな中、私は頭に鈍痛を感じ始めていた。

 

頭が重く、軽い吐き気が襲ってくる。呼吸が浅くなり、息を吸おうとしても、うまく吸うことができない。目の先に見える山小屋が、遥か遠くに感じる。だるい。こわい。突如襲い掛かってきた恐怖に困惑し、隣りの美津子に助けを求めようとした時、

 

「みっちゃん、ちょっとストップ!」

 

後ろにつづいていた三つ編みの女の子が、大きな声をあげた。振り返ると、これまで快活な笑顔をみせていた関西弁の女の子の表情が曇り、肩で息をしているのが目にうつった。

 

「さっきから亜由美ちゃんの様子がおかしいんです」

 

三つ編みの女の子が不安そうな表情を浮かべる。美津子は足を止め、亜由美のもとへ駆け寄る。声をかけるタイミングを失った私は、美津子の背中を視線で追った。

 

「あらあら、高山病かしらねえ。大丈夫よ、落ち着いて」美津子が亜由美の背中をさすりながら、「息を吸おうとしちゃ駄目。息をふかーく吐くことを意識するの。そうしたら自然と空気が入ってくるから」と、優しく声をかける。

 

「ふー、ふー」と美津子自ら口を尖らせ、息を深く吐く姿を実演してみせる。まるで出産現場に居合わせたようだ、とぼんやりと思う。

 

ふーふー、ふーふー。

 

美津子がリズムを刻むように亜由美の背中を優しく叩き、それにあわせて亜由美がゆっくりと呼吸を整えていく。ふーふーはー、ふーふーはー。気づけば私も自然とその音に呼吸をあわせていた。ふーふーはー、ふーふーはー。何度か繰り返すうちに、徐々に呼吸が深くなっていく。

 

頭は依然として気怠い重みをまとっていたが、呼吸が整うだけで、ずいぶん楽になったような気がした。

 

「うん、上手に吸えるようになったね。山小屋までもうちょっと頑張れるかしら」

 

美津子の問いかけに、亜由美が弱々しくうなずく。そんな彼女を励ますように、「山小屋に着いたら美味しいカレーが待ってるからね」と、美津子はひょうきんにカレーを口へかけいれる真似をしてみせた。

 

「カレー大好物やねん」亜由美が懸命に明るい声で返事をする。そして「お姉さんも一緒に頑張ろうね」と、少し上に佇む私に微笑みかけた。

 

「そうだね。私もカレー大好物だから頑張らなきゃ」どんよりとした頭痛を振り払うかのように、私もまた明るい声で答えた。

 

私はまだその日常を知らないPhoto by Atom Yuen

 

「お姉さん、今ちょっといいですか?」

 

三つ編みの女の子が苦々しい面持ちで私に声をかけてきたのは、なんとかたどり着いた山小屋で美津子が言う通りの絶品カレーをたいらげ、寝床を整えている時だった。山小屋の中は、多くの登山客で鮨詰め状態だったが、不思議と苦ではなかった。同じ目的をもって集まる仲間意識によるものだろうか。むしろ居心地の良さすら感じる。

 

「亜由美ちゃん、山頂まで行けなくなっちゃいました」

「え」

驚きながらも、夕食時、大好物だと言っていたカレーに全く手をつけていなかった亜由美の姿が脳裏に浮かぶ。

 

「頭痛と吐き気が治らないみたいで、みっちゃんがここまでにしておこうって。お姉さんもさっきつらそうでしたけど、大丈夫ですか?」

「うん、私はもう大丈夫。ありがとう。今は、亜由美ちゃんはどうしてるの?」

「今は寝ています。ただ、さっきまで凄く落ち込んでて。なんのためにここまで来たんやろって。普段が凄く明るい子なだけに、なんだか見てるのがつらくて、思わず初対面のお姉さんに弱音吐きに来ちゃいました」

 

三つ編みの女の子が、困ったように鼻を掻く。こういった時、なんと返事をすればいいのか適切な言葉がみつからず、私はただ「うん」と頷いた。

 

「でね、亜由美ちゃんが言うんです。自分のことは放って行っていいから私だけでも頂上まで登ってこい、って」

「それもまた、苦渋の選択だね」

「ですよね?確かに、ここまで来たら最後まで登ってご来光を拝みたいって気持ちは山々なんですけど」

「一人で登頂しても素直に喜べるとは思えない」

「はい、その通りです。・・・あ」

 

肯定をした後で、三つ編みの女の子が気まずそうな表情を浮かべる。今の肯定が、一人で富士山を訪れた私を揶揄した発言だと捉えられたのではないかと考えたようだ。

 

「気にしなくていいよ、全然」私が笑うと、彼女は安堵の色を浮かべ「お姉さんは、どうして一人で富士山に来たんですか?」とたずねてきた。その後に「あ、これは別に一人で来てることを貶してるとかそういうわけじゃないので、誤解しないでくださいね!」と、間髪入れずに慌ててフォローを入れる彼女を、可愛らしいなと思った。

 

「そうだなあ、なんでかって聞かれるとちゃんとした理由もないくらい衝動的な行動だったんだけど」

「衝動的?」

「そう、衝動的。なんだか急に日々の生活が平凡なものに思えちゃって刺激が欲しくなっちゃったんだよね」

「それで富士山ですか?しかも一人で?」

「夫が出張で留守にしてるから、今のうちにと思って」

「なるほど、確かに衝動的ですね」

 

しばしの間話をしたところで、彼女は「そろそろ戻りますね」と腰をあげた。結局、一人で登頂するのか、山頂には行かずに二人で下山するのか、答えは出せないままのようだった。

 

「あ、お姉さん名前なんて言うんですか?」去り際にたずねられ、お互いの名前を知らないままだったことに気づく。

「早苗です」

「早苗さんか。私は架奈江です。私、早苗さんと話せて良かったです。じゃ、おやすみなさい」

 

去っていく架奈江の背中を見送りながら、再度ここを出発する時、彼女たちの姿はないだろうと思った。そのかわりに、朝方になって山を下っていく二人の姿が脳裏に浮かぶ。彼女と会話をした数分間。亜由美のことを話すときの活き活きとした彼女の表情を見て、そう思ったのだった。

 

私はまだその日常を知らない

 

窓を少しだけ開け、隙間から空をのぞむ。すっかり暗くなった空に浮かぶ月が、地上より見るそれよりも、近く大きく感じる。山頂へ向けて山小屋を出発するのは深夜0時。残り4時間。体調を整えるためにも、しっかりと睡眠を取っておこう。先に進みたくても進めなかった彼女たちを思いながら、私はまぶたを閉じた。

今月の旅のMAP

5/5

前のページヘ
                                        

この記事を書いた人

佐藤 萌

佐藤 萌

1991年福岡県生まれ。法政大学を卒業後、大手人材会社に勤務。
エンターテインメント(小説・漫画・映画・アイドル)をこよなく愛する。忙殺されがちな日々の中で、さまざまな作品を通じて「私生きてるな!」と、心揺すぶられ実感すること多々有り、現在は「作品やそれを創り出す作家に自分の時間もエネルギーも費やしたい!」と以前から抱いていた目標に向かって奮闘中である。

ありきたりじゃない旅Guide

Wanderlustのアカウントをフォローして
連載を見逃さずに読もう!

facebook

twitter

instagram

TOPへ