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私はまだ、その日常を知らない vol.4

平凡な日々を送る私が標高3,776mからみた景色④

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この連載は... 夫の留守中、日本一の山をひとりで登る。ある日そう思い立った私<早苗>は、家事を全て投げ出し、富士山頂を目指した。平々凡々な結婚生活。刺激のない毎日。そんな日々に辟易としていた私は、そこで登山ガイドの美津子と出会う。美津子との会話、富士登山を通して、私が見たものとは…?「ねえ、それって誰にとっての普通なの?」”富士山”を舞台に、正反対のふたりを描く短編ストーリー。

私はまだその日常を知らない

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依然としてゆっくりとしたペースを保ちながら、五合目六合目を順調に通り過ぎる。少し前に小さな休憩を挟んだからか、先程よりも足取りが軽く感じられる。後ろを歩く関西弁の彼女に至っては、時折鼻歌が混じるほどだ。

それでもやはり、まわりの風景は厚い霧に覆われてはっきりとは見えず、退屈な気分を隠すことはできないでいた。

「どう?楽しめてる?」

不意に、隣を歩く美津子がたずねる。

「ええ、まあ」私は愛想笑いした。「でも、さっきよりは頂上に近づいてきたなって感じます。空気とか気温とか」と言ってから、仰々しく深呼吸してみせた。

「ふふふ、そうね」美津子は微笑んでか「でもね、ここから急に風景が変わるわよ?」と指を立てた。

美津子が指さした方向を見る。

「へ」と、私は目を丸くした。

それまでの平坦な道ではなく、狭くて勾配が強いゴツゴツとした岩場が、目の前に構えていたのだ。

 

私はまだその日常を知らない

 

それにしても、急だ。目の前の岩場を再度見上げ、ごくりと咽喉を鳴らす。

「はい、皆さん!ここからは、これまでの道と違って、岩場を一列になって登っていきます。滑りやすいのでトレッキングポールを持っている人は、長さを短く調整してください。それから、体温があがって暑く感じるので、上着を羽織っている人は脱いじゃってもいいかもしれません」

と、美津子がここからの登り方について説明を加える。

指示通りに、持っていたトレッキングポールの長さを調整し、羽織っていたレインウェアをザックに片づける。

「さあ、登るわよ!雨上がり、行くぞっ!おー!」

美津子が掛け声をかける。

「せやから、雨上がり“ 決死隊 ”やって〜」と、関西弁の彼女は苦言を呈しながらも、右腕を大きく空へ突き上げていた。

 

私はまだその日常を知らないPhoto by haruriina

 

岩場を登るのは難しいんだろうなと、想像していたレベルよりももっと、目の前の岩場に私は苦戦を強いられていた。「おっと」油断すると足を滑らせそうになる。

狭い岩場には大きい岩と小さい石が混在しており、トレッキングポールの先端をどこに置き、自分の足をどこに踏み入れるか、頭で考えながら進まなければならない。

後ろが詰まっているため後戻りはできず、一度足の配置を間違えると、大股を広げて不恰好なかたちで登るはめになる。

岩場の左右には鉄の鎖が設置されているが、これは道順を示すものであり、引っ張るものではないようだ。

思わず掴むと、「抜けちゃうから掴まないでくださいね」と美津子から即座に指摘が入る。

とはいえ、どこに手をつけばいいか分からなくなった時は、美津子の目を盗みながら、こっそりとその鎖にお世話になった。

 

「なあ、これどこに足置いたらええのんー?」関西弁の彼女が声をあげる。

「右前の岩に手をついて、その手前の岩に足!」と、すかさずその友達が指示する。

「よっこら、しょーいち、っと!」関西弁の彼女は友達の指示通りに足を進め「ほんまや、登れた!ありがとう!」と、晴れやかな笑みを浮かべる。

その後もふたりは、関西弁の彼女が助けを求めては、その友達が的確な指示を出すというふうに、阿吽の呼吸で一歩一歩岩場を登っていった。

目の前の困難を、ふたりで協力しながら乗り越えていく。

そんなふたりのやりとりを耳で感じながら、なんだか羨ましいなと思った。

この時はじめて、夫である康晴と一緒に来れたら良かったなと、不意に思った。

少しずつ息が上がっていく。足を踏み外すまいと、身体を強張らせながら登っているからか、疲労を感じ始める。立ち止まってしまいたい。けれども後ろからどんどん人が登ってくる。しんどいな。

そう弱音を吐きそうになった、その時だった。

「雨上がりのみんな!後ろ見てー!」前をいく美津子が足をとめ、声を上げた。

「向こうの方に、ふたつのまーるい形が見えるでしょー?」と人さし指で遠くを差し「あっちが山中湖で、こっちが河口湖ですよー」と説明を加えた。

岩を登る途中の中途半端な格好のまま、ちらりと後ろを振り返る。わっ、と声があがる。息を飲む。雨はいつの間にか止んでいた。霧のせいで真っ白だった視界が鮮やかに色づいている。

気がつかないうちに、空を覆っていた雲の隙間からは、青空が顔を出していた。

 

私はまだその日常を知らない

 

ふと、康晴との会話が蘇る。

「俺さ、早苗といるといつも幸せなんだよね」

結婚する前の、確か喧嘩の最中だった。喧嘩の原因は忘れてしまった。きっと、つまらないことだったはずだ。けれど私は、酷く気分を害していたと思う。

「こんな時に何言ってんのよ。私怒ってるんだけど」

口をとがらせる私に対して、康晴は困ったように笑う。

私たち夫婦は喧嘩をするといつもそうだ。私が遠慮も容赦もなく不機嫌になり、康晴は表情を変えず穏やかに私の不平不満を受け止める。

端からみると、喧嘩というよりも私がただ一方的に怒っているように見えるだろう。あの時も、そうだった。

「ごめんごめん。でもさ、こうして喧嘩してる最中も想像しちゃうんだよ」

「何をよ」

「仲直りしたときのこと」

康晴が恥ずかしそうに鼻を掻く。

「仲直りできたとき、早苗ってわかりやすく機嫌が良くなるだろ?さっきまでの怒りはどこいったんだよって突っ込みたくなるくらいに」

「私は、今まさに怒ってるんだけど。それに、必ず仲直りできるかなんて分からないじゃない」

「そうだね。でも、するだろ?」

完全に康晴のペースだった。

「で、こうやって喧嘩しているのも幸せに思えてくるわけ」

「意味わかんない」

「うん、意味わかんないよな。でも、この喧嘩の後の早苗は、どうやって笑うんだろうとか。どんな鼻歌を口ずさむんだろうとか。そんなことを考えてると、たまにこうやって喧嘩するのもいいなーって思えちゃうんだよな」

恐らくそれは喧嘩に限ったことではなく、多少の困難が立ちはだかっても、ふたりでいれば幸せと思えるはずだ。と康晴は続けた。

そして「だから、結婚してくれない?」と。

あのとき康晴は、どんな気持ちでいたのだろう。もしかしたら、こんな気持ちだったのかな。
これまで登ってきた岩場と、後ろを歩く女子大生二人組、そして、遠くに見える風景を交互に眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

「それにしても、喧嘩の最中にプロポーズってないよなあ」

強張っていた身体の力は抜け、自然と口元は緩んでいた。

 

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この記事を書いた人

佐藤 萌

佐藤 萌

1991年福岡県生まれ。法政大学を卒業後、大手人材会社に勤務。
エンターテインメント(小説・漫画・映画・アイドル)をこよなく愛する。忙殺されがちな日々の中で、さまざまな作品を通じて「私生きてるな!」と、心揺すぶられ実感すること多々有り、現在は「作品やそれを創り出す作家に自分の時間もエネルギーも費やしたい!」と以前から抱いていた目標に向かって奮闘中である。

ありきたりじゃない旅Guide

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