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私はまだ、その日常を知らない vol.3

平凡な日々を送る私が標高3,776mからみた景色③

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この連載は... 夫の留守中、日本一の山をひとりで登る。ある日そう思い立った私<早苗>は、家事を全て投げ出し、富士山頂を目指した。平々凡々な結婚生活。刺激のない毎日。そんな日々に辟易としていた私は、そこで登山ガイドの美津子と出会う。美津子との会話、富士登山を通して、私が見たものとは…?「ねえ、それって誰にとっての普通なの?」”富士山”を舞台に、正反対のふたりを描く短編ストーリー。

私はまだその日常を知らない

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私はまだその日常を知らないPhoto by haruriina

少し前までの気持ちの高ぶりは何処にいってしまったのか。
そう思うほどに、私は今、酷く拍子抜けしていた。

富士スバルライン五合目をスタートしてからどのくらいの時間が経過したのだろう。
私ー、もとい美津子率いる雨上がり決死隊は、時折数人の登山客に抜かれながら、ゆっくりと進んでいる。

吉田ルートと呼ばれるその経路は、勾配も少なく、登山初心者の私でも歩きやすい道が続いている。

穏やかで、平坦な道が。

「なんか、思ったより普通やんなあ」

ふと、後ろを歩く女の子ふたりの会話が耳に入る。大学生と思われる若いふたりだ。

「これやったら、おさむちゃんの言い分も分かるわ」と、関西弁の彼女が言う。

「おさむちゃんって、誰。向井理?」と、その友達が尋ねる。

「え、ちゃうし。おさむ言うたら、太宰治やろ」と、関西弁の彼女が口を尖らせる。

常識とでもいうような彼女の口ぶりに、私は思わず、笑いをこらえる。

髪をおさげに結い、いかにも文学少女に見える友達の方ではなく、髪を短く切り、快活な運動選手に見える関西弁の彼女が言うから尚更だ。人は見かけによらないな、と思った。

「太宰治のことを、おさむちゃんなんて呼ぶ人いないよ」と、友達が顔をしかめ、「で、その治ちゃんは何て言ってたの?」と尋ねる。

「富獄百景ってあるやんか、治ちゃんの作品で。確かその冒頭でな、富士山のこと鈍臭いとか何とか言っとんねん」関西弁の彼女が、答える。

どうやら彼女の話では、「富士山の絵はたいていが鋭角で、あたかもエッフェル塔のように描かれているが、実際の富士は、鈍角も鈍角。のろくさと拡がり、決してすらりと高い山ではない」といったような文が、太宰治の『富嶽百景』に書かれているのだと言う。

なるほど、と私は思った。これまで来た道を思えば、彼女がその文を思い出したのも納得がいく。
それほどまでに、今歩いているこの道は、予想していたよりも穏やかで平坦な道なのだ。
加えて、先ほどまでの霧雨が急にその雨脚を強め、本来であれば雄大な景色が広がっていたであろう行く先は、大粒の雨と白い靄で覆われていた。

私はまだその日常を知らないPhoto by senngokujidai4434

「つまらないな、と思ってるでしょ」と、突然横を歩いている美津子が口を挟む。

優しく微笑みながら訊ねられ、私は慌てて首を横に振る。
図星を突かれたようで、思わず大袈裟な動作になってしまった。

「本来なら左側に綺麗な景色が拡がってるんだけど、この雨で生憎、ね」と、美津子が肩をすくめる。

「残念です」

「景色も見えない。道も平坦。つまらなく感じてるでしょ」と、もう一度訊ねられる。

「は、はい」今度は素直に首を縦に振った。美津子がくすりと笑う。

「ふふ。でもね、ここをじっと耐えられるかどうかが、この登山が成功するかどうかの鍵なのよ」

依然としてゆっくりとしたペースで歩きながら、美津子の言葉に耳を傾けるために、ふと首だけ横を向く。

「平坦な道だからって急いで歩いちゃ駄目なの。他の人に抜かれたって、焦る必要もない」美津子が続ける。「ここで急ぐと、後で息切れしちゃうから。じっと耐えて、ゆっくり、一歩一歩、土を踏みしめながら歩くんです」ザッザッ、と土を踏む音が耳に入る。ザッ、ザッ、ザッ。規則的に鳴るその音に心地よさを覚える。

「麓から見上げた富士山の壮大な外観に捉われるでもなく、これから目指す富士山頂への思いに急かされるでもなく。今歩いている、平凡なこの道に目を向けてみるの」

穏やかな口調で、けれど無邪気な少女のように屈託ない笑顔を浮かべながら、「そしたら色々気付いてくるのよね、これが」と、美津子が言う。

 

都会では見ることができない草花に。

同じように見えて少しずつ色を変えていく土の色に。

自然が奏でる様々な音に。

 

私はまだその日常を知らないPhoto by haruriina

 

「ね、悪くないでしょ」美津子がチラリと眼差しを向けてくるのを感じた。

私は声こそ出さなかったが、少し微笑んでうなずく。美津子は満足そうに笑って「はーい、雨上がりの皆さーん!ここで少し休憩しますよー」と、後ろを振り向き叫んだ。

「みっちゃん、決死隊忘れてんで」と、関西弁の彼女がケタケタと笑う。

「だって、雨上がり決死隊って長いじゃない」と、美津子が舌を出して肩をすくめた。

 

そんな二人のやりとりを眺めながら、私は、自分の結婚生活のことを思っていた。

平凡だと感じている結婚後の毎日も、見方を変えれば、何か気づくことがあるのだろうか。

物足りないと感じていながらも、なんとなく過ごしている日々に、果たして意味はあるのだろうか。

 

持ってきていたゼリーをお腹におさめながら、私は、そんなことを考えていた。

「雨上がり決死隊で長いんやったら、最後の方とか、雨だけになってそうやんな」

「否定できないなあ」

「雨なんて何の捻りもなくておもろないやん。ダサイわあ、嫌やわあ」

後ろでは、関西弁の彼女がおにぎりを頬張りながら嘆いていた。

今月の旅のMAP

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この記事を書いた人

佐藤 萌

佐藤 萌

1991年福岡県生まれ。法政大学を卒業後、大手人材会社に勤務。
エンターテインメント(小説・漫画・映画・アイドル)をこよなく愛する。忙殺されがちな日々の中で、さまざまな作品を通じて「私生きてるな!」と、心揺すぶられ実感すること多々有り、現在は「作品やそれを創り出す作家に自分の時間もエネルギーも費やしたい!」と以前から抱いていた目標に向かって奮闘中である。

ありきたりじゃない旅Guide

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